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+Nラボ 不定期コラム

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2012/08/09 SE構法との出会い

» 大学2年までは、他の同級生と同じく建築家になる事を漠然とながらも考えていました。

» しかし、その一方で常に違和感を抱えていたのも事実でした。それは、設計の授業で課題を出された際も、意匠的なものより構造的な事や納まり的な方に目がいき、『こうした方がスマートでかっこよくなるけど、構造的に無理がくるなー』とか『これを無くした方がスッキリとするけど無いと後で住みにくいだろうな』といった感じに想いがどんどん先に立ち、自分は建築家よりもっと内的なものの方が、向いているのではないかと思うようになりました。

» そこでゼミを選ぶ時に選んだのが、大学では数少ない木質構造の研究室でした。数少ないというマニアックさにも惹かれたのですが、雑誌等で見る大規模木造建築の架構の美しさや力強いのに優しい木の感じに惹かれ決めたのです。

» ゼミに入り先輩のやる研究を手伝いながら、自分の研究したいテーマを考えていた時、その後の方向を決める大きな出来事がありました。『阪神淡路大震災』です。死者6千人以上、1万人の重傷者、30万人以上の避難者、25万棟にも及ぶ建物の全半壊という、未曾有の災害でした。私の高校時代の同級生や知人も多数在阪していましたので、心配であらゆる手段で連絡を取ろうとしたのを覚えています。結局運良く皆軽傷程度ですんだとの連絡が友人づてや本人からあり、胸を撫で下ろしたものでした。

» その次の日から私の進む方向は、否応なく決められてしまいました。研究テーマは木質建造物における震災での被害調査と原因究明と対策となりました。国交省(当時建設省)等・業界団体から依頼により、被災地に乗り込みその倒壊状況・倒壊パターン等の調査を何回にも分け行いました。カメラをもった学生が壊れた建物を写真に撮り、その前で片付けに追われる家主さんにお話を聞き、『こんな事をしていてもいいのだろうか、調査より先に元の生活に早く戻れる様にお手伝いした方がいいのではないか』と思いながら、余震の続く神戸市内を歩いて廻りました。しかし、倒壊したり焼失したり、お亡くなりになった方のいらっしゃるお宅の住人の方に思いがけない言葉を頂きました。『学生さん、よう調査して壊れん家の研究に役立ててよ』と、あの一言で、それまで抱えていた思いが幾分か楽になったのを覚えています。

» そして震災の数ヶ月後から思いもよらなかったプロジェクトに巻き込まれて行く事となりました。それは官民一体となって震災の教訓を生かそうと、(財)原子力発電技術機構の多度津工学試験所で、世界初の実大振動実験という実際の木造住宅数棟を、様々な地震波で揺らし、どう壊れるか、どうしたら壊れないかを調査研究しました。実際の建物が目の前で大きく揺れ、内部の家具等が飛ぶが如く揺れ動く様は、恐ろしいものがあり、被災された方々の心中は想像を絶する事だったと思います。そのプロジェクトの準備段階から参加させてもらい、木質構造の権威の方々と色々と話す機会があり、その後の人生の大きな糧となりました。

» それらを卒論テーマにし大学を卒業、そして家業を継ぐに当たって修行の場として選んだのは、必然的に神戸となり、約5年半、微力ながら神戸の復興の手伝いをしながら、震災の爪痕が少しずつ消えていくのを見ていました。神戸在住の頃は木造住宅とあまり関係せず、大きな現場(兵庫県立新美術館等)を手掛けながら復興・変化していく神戸を見ていたわけですが、その間も木造住宅への想いは常にもっていました。

» 結婚を機に福山へ帰郷し、家業である中島建設株式会社に入社し、その後の方向性を探っていた際、学生時代にゼミに入るきっかけとなった、集成材造による住宅を手掛けたいと思う様になり色々な構法や会社を調べました。その中で現在の在来木造住宅は、大きな地震がある度に壁の量を増やし、細切れの部屋の集まりとなっていってしまう事に疑問を感じ、昔の様なおおらかな空間(襖や障子を外せば大広間になる)を実現することが困難になってきている現実を憂いました。そうして、1年以上費やして検討・見学して行き着いたのが、『SE構法』でした。大空間や大開口の実現は勿論、それを証明する構造計算書、そしてシステム的なバックアップ体制、構造体の持つ意匠性まで考慮した上での決定でした。『SE構法』の採用決定から備後地区第1棟目の竣工まで更なる時間が費やされたのですが、その決定は間違っていなかったと確信しております。